若いときは、正義とか公正とかにこだわるもんですが、年取って色々経験すると、実は世の中は何でもありなんだなって感じたりします。

競争に負けて行き場をなくしたり、また別の道を進んだりと、それはそれでいいんだけど、若いときにはそれがわからない。

行き詰まりしか見えなくなると、絶望したりします。

待てばまた道が開けてきたりもするんですが・・・

子供の頃受ける教育では、善悪という概念を叩き込まれる。

その基準は、人に迷惑をかけてるとか、お巡りさんに捕まるとかいう理由が挙げられますが、これは周囲の感情や法律が元になってます。

これが、宗教では、神様とか教祖様が判断基準になる。

こういう社会基準がないと、誰もが自由に振る舞って秩序が保てなくなるので必要なんでしょうね。

考えてみれば、みんなが価値を認めなければ紙幣だって紙切れです。

誰も迷惑に思わなければ法律も有名無実になる。

共通意識を持たせるために権威を理由に、”こうしなければこうされるぞ”って教えるのが後に僕達の中に”こうあらねばならない”という正義になるんでしょうね。

そしてそれを人に当てはめようとする。

迷惑この上ないです(でも自分も無意識にやってる)。

自然界が生み出してくれた自分という観点からすると、基本的に正義と呼べるものは、”生存””繁殖”なんじゃないかと思うのですが、それに付随して”より快適な生活”→”共存”→”必要なルール”→”きまり”→”正義”と発展してきたのかな?

でも、これが複雑化しずぎて、「わけがわからないけどきまりだから守らなきゃ」ってなって、誰かを不幸にしてるのではないかと思います。

アドラー心理学が受けるのも、その辺の割り切りがはっきりと説明されてるからなんでしょうね。

で、近所のおばちゃんの噂話も、マスコミの報道も、いじめもそうだけど、人の事に構いすぎなのと、それを気にしすぎなのが、人を窮屈にしているのだということを、僕は経験から学んだのでした。