50になった時に小学校の同窓会があった。

この時、相互の記憶の食い違いがあった。

「〜の家はどこどこだった」

「〜はふたりおったろ」

「そんなのいたかな?」

嫌な思い出の相手でさえ記憶が食い違います。

ものの本によると、人は記憶を書き換えて生きているとのことですが、まさにそのとおり。

そもそもその時でさえ立場の違いからものの見え方さえ違います。

それに時間が加わって、消え去った出来事に勝手に意味を付け足していく。

アテになったものではありません。

それで契約書なんかが必要になるんでしょうね。

それで結論。

イヤな記憶は今時分がイヤだと思っているだけで、実はその時はイヤじゃなかったんではないか?

いや、ホントは嬉しかったんじゃないか?

そう考えると面白いじゃないですか。

どうせなら面白くて楽しい方に書き換えたらいいんじゃないかな?

過去とか記憶とか絶対なんて思ってるところに問題があるんであって、そこを外せばどうって事ありません。

都合の悪いことがあっても、

「そんなことあったっけ」

でいいんですね。

都合の悪いことなんて、自分も含めて、今誰かが都合の悪いことだと思ってるだけで、ホントはそうじゃないはずです。

みんなボクのことが好きなんであって、神様も幸運の女神もボクに微笑んでくれてるなんて思えれば素晴らしいじゃないですか。

どうせ自分を通してでなければ世界は認識できないんであるのでそこがハッピーだったらハッピーなんですね。