子供のころ、学校に行くのがとても嫌だった。

特に家を出るとき。

今になっては理由は分からない。

今、当時の写真を見ると、顔は苦痛に歪んでこわばった写真が多い。

ブクブクと太って悲しげな写真ばかりだ。

記憶の中でも、毎日が辛く悲しい思いが自分を包んでいたように思う。

小学校低学年の時には毎朝腹痛と嘔吐で登校を拒否していた。

近所のお姉ちゃんを待たせてまで拒絶していたものは何だったのだろうか?

それが、先日読んだ斉藤茂太さんの、「豆腐の如く-融通無我のすすめ」を読んでいて少し理解できた。


僕が衝撃を受けたのは次の文。


ヒステリーというのは、自己防衛を目的として起こる心因性精神障害で、不登校の子が、朝になると頭痛や腹痛を訴えて、不登校を合理化しようとするのはもっとも身近な例である。
多くの場合、この子たちは怠け心からウソの痛みを訴えるわけではない。
反対に、いい子であろう、優等生であろう。
無理をしてでも学校へ行こうというやせ我慢を積み重ねてきた結果、その要求に応えきれなくなぅった自分をなんとか守ろうとして、頭痛や腹痛のヒステリー症状を起こす。


ああ、あれはヒステリーだったのか・・・

思い出してみれば、祖母の口癖が、「〜せないかんぞね」であった。

子供の心には、この断定の言葉で達成すべき規範が出来上がる。

こういう言い方をしていた。

「ええかね、ぜんぶおばあちゃんに言わんといかんぞね」

心の内をすべて、目指す目標も、感じたこともすべて・・

それに対して、「そんなこと思うたらいかん」という修正が入ってくる。

自分が何を思おうがそれは自然に発してくるのであるから、それをいちいち修正されていくとどうなるか。

そのうち自分の本心が分からなくなっていったのではないか・・・

「うちの子はそんな子じゃないも」というのもあった。

付けっぱなしのテレビで非行のニュースを見ては逐一

「うちの子はそんな子じゃないも」

という。

これが繰り返されると、「ああなってはいけないんだ」という強烈な洗脳が出来上がる。

これに加えて宗教の話もあるのであるが、それもまた、神様と死んだおじいさんが助けてくれるというものでありました。

一日中、ひっきりなしに語り掛け、独り言を言い、聞き続けたこれらの言葉。

かくしていい子であろうとする幼児が出来上がり、それに達する事の出来ない自分を卑下し始める。

それがヒステリーを発する原因ではなかったか。

今生きていられるのも、面倒を見てくれていた婆さんお陰でもあるし、無くなった後、助けてくれてる可能性もあるしで、恨みに思うという事ではないのであるが、幼児期の僕にはとてつもないプレッシャーがかかっていたものとは思われます。

大人の何気ない言葉、習性が子供にはとんでもなく辛い環境をもたらす可能性だってあるのだなあなんて、思いました。

とりわけ己を知ることに尽力している最近ではありますが、これは大きな進歩になったと思っています。

ありがとうございます!