サイキ整備Service

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カテゴリ: 思うところ

僕は仕事を辞めて次の見込みがなかった時、このテーマをずっと考えてました。

価値のある紙と金属?

いや、今ではネット上の記号に過ぎないらしい。

では仕事とは?

お金がもらえなければ仕事ではないのか?

ボランティアは仕事ではない?

それならとても安い賃金で使われてる人は仕事をしていないのに近いのか?

誰かの役に立つのが仕事?

では、高い賃金を貰っているのに何もしていない人は仕事をしていないのか?

資産家はお金を得ているのに利益を得ている?

既得権益者は?

西田先生のYouTubeチャンネルで、お金を配るとどうなるかというのが出てました。



無制限にお金を貰えるようになると働かなくなるらしい。

であれば、誰かを助けたいと思う人は皆無になってしまうのか?

それでも働く人はいると思う。

逆に今は低賃金であったり引かれる社会保障費や税が多くて働くのが馬鹿らしくなっていないか?

お金はツールでしかない。

そのバランスが崩れると社会は崩壊する。

ただそれだけであって、シャカリキになって求めるものでもないし、必要以上にため込む必要もないんじゃないかな?

労働が美徳だなんて刷り込みの元にタダ同然で働かされてきた労働者は、何のために体を壊すのか?

仕事が自己実現の手段でなければ、不幸ではないだろうか?

報酬と労働は厳密には別に考えるべきではないのかと思うのでありますよ。





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僕は、悩みが出てきた時には、ちょっと立ち止まって考えるようにしています。

そして、自分の心の中を探ってみる。

そうすると、動かせないと思っている何かが必ずある事に気づきます。

例えば誰かを怒らせた時には、

何か悪い事をしたんだろうかとか、言い方が悪かったとか悶々と考えがちですが、

実はその根底には今後も怒らせた相手と付き合っていかないといけないのに支障があるので困るとか、仕返しされるかもしれないので怖いとか、別の動機があったりします。

この時、動かせないと思っているのが、その人との付き合いです。

今後一切かかわらないでいいのなら、相手が怒ろうがどうしようが関係ないはずなので。

いわば、表面的な事で悩んでいるのに根っこの感情には気づいていない。

付き合うのをやめるなり逃走するなり、いつでも嫌な相手とはすっぱり縁を切れると思ってしまえば大胆な行動だってとれるようになります。

心を病んで死ぬより、投げ出した方がいいですよね。

この考え方は、メタ認知ってやつにも似てると思う。

一旦どうでもいいと思えるようになると、意外とうまく行ったりするので、これはいいやり方ではないかな?

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話をするとイラっと来るやつがいる。

これはもう習慣であって、その人が邪悪であるとか、こちらを貶めようとか言う意図があるとも思えないのであるが、とにかく腹が立つ。

その一つ目。

こちらの話を即否定する。

「〜というより〜」

とか、

「〜じゃなくて」

という、”じゃない方”へ話を持っていく。

こちらはそういう話をしているのではないという事が分からないと見えて、ひたすら”じゃない方”へ話を進めていく。

こちらは最初の一言で、

「ああ、しまった。この人に話しかけるんじゃなかった。ごめんなさいごめんなさい」

って思い始め、ひたすら相手の話が終わるのを祈り続けることになる。

この繰り返しの結果、こちらが突然黙って無反応で抵抗するのが一番効果的だと思った。

名づけてお地蔵作戦。

次に、意図ではなくて言葉尻を捉えて修正してくるパターン。

これも最初の時点でこちらも頭に血が上りかけて来てるんで、最初に何を話そうとしていたのかも忘れてどうでも良くなっております。

これも言い合いになるので

「ああ、そうですか、すみませんでした」

でスルーした方がいい。

過去にされたことを延々と攻めてくる奴もいるけど、これも時間の無駄。

「じゃあ、そうすればいいの?」

って言いたくなるけど、どんどん険悪なムードになるので、相手をするのはやめましょう。

こういう人を助けようとしてはいけません。

どうでもいい話を持ち出して話しかけてくるんだけど、必ず上記のパターンにはまるので、生返事だけして、意見を述べたり反論してはいけない。

喧嘩を売られているのと同じパターンになります。

寂しいとか、なんで自分には友達がいないんだろうなんて悩んでいても、変わろうとしていると言っていても、ほぼその人自体と言えるほど根付いた習慣なんで全然変わらないです。

録音して聞かせようとしても、そう言う話方を相手にしているという事は認識せずに、聞きたくないって拒絶するはず。

正攻法で攻めると、いきなり卑屈になって、こちらが虐めたみたいに言い出すのでこれもダメ。

この習慣を変えられるとすれば、口がきけなくなるとか、かなり衝撃の体験でもしないと無理でしょう。

でもそれを乗り越えたらその武勇伝を語り始めるのでまだ大変になると思う。

このタイプが家族とか上司にいて、立ち去れない状況の時には、お地蔵作戦で乗り切りましょう。

きっとこちらは悟りも開けて、人間的にもできた人になれると思います。

そう考えればありがたい存在ですね。



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過去に何人か、どう考えても子供みたいなことを言う上司がいました。

しかしながら、立場上とか見かけとか経歴からなにかこれにはもっともな意味があるのではないかなんてかってに解釈して、まじめに取り組んで悩んでいた。

できるわけのない事を

「これぐらいなんでできんのや」

って言われてもできる事なのかどうか誰にも分からないくらい凄い事であったり、

「僕はできていた」

なんて言われてああそうかなんて今から思うとバカみたい。

月5万円あったら生活できますよなんてそれを僕に強要する宗教バカ。

反論すると、

「私はやってきました」

なんて言うけど、それは僕とは関係ないし、あんたが勝手にやればいい事だろうと思う。

要は、誰かを自分の支配下に置きたいだけの我儘なんだけど、言う事を聞かなければ子供のようにかんしゃくを起こす。

うるさいから仕方なく言う事を聞いたらあとはどんどん要求が増えてくるのでありますね。

僕はたまたま宗教家の家庭で育ったからこういう人が多かったのかと思っていたら、なんだか世の中の上から下までこれで満たされているような気がします。

こういう人が現れたら、視界から消えるようにして取り合わないし、あなたのためよなんて寄って来る奴には人の事はほっとけなんて今では思っておりますが、若い頃はそこまで思えないんですよね。

いつか分かってくれると思ったこともあるけど、分かってくれたところでメリットもないし、そもそも分からなのがそういう人なのであるんですね。

本当に助けが必要な人を助けることは大事だとは思いますが、人を甘やかしすぎるとろくなことにはなりませんね。

バカの研究
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体力と引き換えにして歳を取ると色々分かることもあって、これは実は若いころからの蓄積の産物であったりする。

その中でも達観した事の一つに、安定と生きがいというものがあります。

安心安定した生活を求めるのは人の常であると思うのですが、同時に「ここではないどこか」に行きたいという欲求がある。

それを転職に求めたり旅行に求めたりするわけですが、行った先でもまた「ここではないどこか」を探し始める。

常に進歩を求めているといえば聞こえはいいけれど、結局は無いものねだりで終わるような気がする。

それは何かという事を考えていたら、何かに向かって動く、努力するという事を求めているのではないかという事に気づく。

とどのつまりは、そこで出るアドレナリンとドーパミンが心地よいだけなんではないだろうか?

ただ単に、その状態を求めてさまよっているのが人間というものなんでしょう。

意図的にこの状態を出せればいいんだけど、これがなかなか難しい。

趣味があれば趣味に没頭し、仕事が好きなら仕事に没入するのが一番手っ取り早いのだけれど、そこに至るまでには時間とお金がかかる。

それが達成される時期というのが歳をとった頃であるのではないだろうか。

若いころから色々好きなことを試して行動できれば最高なんだけど、生活が追いかけてくるようではそうもいきませんしね。

こういう思い込みも無くすほどに脳内ホルモンの出ることに没頭できればいいのでしょうけれどね。

まあ、僕の経験としては、若いうちから運動と読書、そして瞑想の習慣を身に着けるのが一番いいように思います。







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イギリスの伝説的登山家、ジョージ・マロリーは言ったという。

「なぜ、山にのぼるのか。そこに、山があるからだ」

好きな人には敵いませんね。

これと同じ原理がフェチの人々にも働いていると思う。

このサガというか、チャレンジ精神というかなんといえばいいのか分からない脳のシステムが釣りキチなどを産むのではないか?

彼らは別に下着が欲しいわけではないのかもしれない。

そこに達成感があるからチャレンジするのであろう。

でも、他人の物を盗むのはよろしくない。

持ち主を見て

「うえっ!」(失礼)

ってなる事もなく、ただ淡々と作業をこなしていくのが楽しいのか?

代わりにお金を置いていくという釣りキチもいないようであるから、やはり窃盗に喜びを感じているのであろうか?

盗撮やらナンパしまくるヒトビトも同じ原理で動いているのでしょう。

そういえば、バイクのシートのにおいを嗅ぎたがる整備士もいるようですが・・(吐きそうだけどフィクションらしいので安心した)

せめて、小銭を集めたり庭木を剪定するような人畜無害なフェチに留めておいた方がいいとは思うのですが、これは人によって違うのですね。

できれば仕事やごみ拾いといった有益な方向に向かうフェチならいいですね。

色々調べていたら釣った魚を売っている方を見つけました。

釣りキチ助平

でもなぜ助平?

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ノーリスクでリターンが無限大なものって自分に投資することだってよく言われますが、ではどうのように自分に投資するのか?

その仕方が分からんのよって所が多々ある。

自分が何に向いているのかという事のみならず、何が好きなのかさえ分からないというのが、多くの日本人なのではないか?

これはお仕着せの教育の影響なのか、あるいは毒親の影響なのかは分かりませんが、自分の居場所は誰かから与えられるものだっていう前提というかイメージから発したものではないか?

または、限られたものをみんなで奪い合うとか分配しあうという発想からくるものなのでしょうか?

逆に、価値は自分が創造するものだという考えに至れば、自然と新しいものを取り入れながらどんどん作り出していこうとするのではないだろうか?

僕は、知らないものを学んで、やってみて、吸収し発展させて、今までできなかったことができたり価値を作り出していくのが成長だと思っているのですが、どうもこの辺が日本的な発想では弱いような気がする。

だから、

「自分に投資するって、何をすればいいの?」

なんて疑問が出たりするのかもしれませんね。

それは自分しか決定できないことだから、誰かに聞くのもおかしいとは思うのですが。

たくさんの知らないジャンルの事を調べて経験して、そこから得た経験や知識を応用していく事がやがてリターンを産むという事であれば、まずは読書からという事になるのかもしれませんが、それに加えて習慣的にしている反応を変えてみるとか、表情を変えてみるとか、色々試みるのも自己投資ではないかとも思います。

時々直面する嫌なことも、すっぱり切り捨てるとか忘れてしまうとか、その方法を編み出すとか、方法を考えてやってみるのも面白いんじゃないでしょうか。

1日1%変われば1年後には全然違う人になってる訳ですから、これはチャレンジしてみる価値がありそうです。

結局は、いろんな方法で頭のOSのアップデートをするのが自己投資なんでしょうね。
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人を上に見ることが美徳とされる日本なのかどうなのか知らないけれど、他と比較してどうかという事がひたすらなされる日常。

周囲と比較して自信を無くしたり得意になったりして感情もアップダウンする。

だけれどそれには意味があるのか?

仮に誰かが優れているとしても、それは他の誰かと比べての事であって、それもまた今現時点でのことでしかないのではないか?

例えば今現在大谷選手が素晴らしい成績をおさめている現実があっても、それも誰かと比べての事だし、イチローさんが現役当時、その時点の大谷少年と比べたら当然イチロー選手の方が野球はうまい。

凄いの凄くないのというのは、今現在の誰かと、あるいは何かと比べての事に過ぎない。

今の文明が滅び去った後の時代には、今現在凄い誰かも全然すごくないのではないか?

今僕らが上下左右に勝手に揺さぶられている凄さというのは、条件付きの凄さであるのであるけれども、それに意味はあるのか?

あるいは命をかけたりする価値はあるのか?

それよりもっと大事なことがあるんじゃないのか?

そんなことを考えると、多くの時間を無駄にしてきたなぁと思うんです。

もっと人生を楽しめばよかったなんて後悔する前に、比較をやめた方がいいと思うのですよ。


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口げんかになるパターンがある。

まず、細かい言い間違いを訂正された時。

「そいう事を言いたいんじゃないんだ」

って所から言い合いになる。

次に、何回も同じことを言う場合。

これは、

「何が言いたいんだ、くどいぞ」

と言うので文句を言ったら言い合いになる。

まあ、売り言葉に買い言葉でどんどん雪だるま式に喧嘩になって、

「このわからず屋!」

ってなっていく。

何が言いたいかというと、会話が多すぎるんだと思うのですね。

沈黙に耐えきれずに要らん事を話すから、自分でも分からんうちに嫌な気分になって喧嘩になるのです。

言葉が足りないのもいけないけど、言い過ぎはさらにいけない。

言った言わないでもめてる人々のいかに多い事か。

言葉って恐ろしいですね。

暴走した言葉は凶器を振り回しているようなもんです。

承認欲求はさらに恐ろしい。

問題になりそうになったらまずは黙りましょう。

これには僕なりの秘訣を持ってて、あ、これは暴走するなって思ったら、

「ち〇〇」

って言うようにしていますゥ。

ここで流れが変わるんだけど相手によっては問題になるので、心の中で、あるいは小さな声で言うとおかしくて笑顔になります(この雰囲気で突然微笑むと怖いかも)。

みなさんも、思わず微笑む自分なりの魔法の言葉を編み出してはいかがでしょうか。




注:〇の中身はなんでもいいんですが、正解は”ちげ”だとでもしておきましょうか(笑)。

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成功者はたくさん挑戦をしているらしい。

そして、たくさん失敗もしているとの事。

要は、トライ&キャッチを繰り返しているという事で、その中からスキルが身についたりチャンスを得たり、人脈ができたりしていくのだろう。

なるほど言われてみれば、なんにもしなければ何にも生まれない。

納得ずくでなければ行動しないというのでは、チャンスも経験も限定されてしまう。

そう言う事で、面白がってどこにでも首を突っ込むのはいい事だと思う。

そして、もう一つ成功者の特徴で、決めた目標に向かって飽きずにやり続ける事。

手段は選ばないけど、決めた目標は容易には変えないって言い換えた方がいいかもしれない。

いろんな手段を試みながらいつの間にかそこに辿り着いているというのが成功者ではないかと思う。

何を成功というのかは人それぞれだろうけど、もっとも心地よい状態に到達するのが成功というのだろうか。

その時その時にはなんだか一貫性のない人生を送ってきたように思うけど年を取って振り返ると

「自分はここに辿り着きたかったんだな」

なんて達観できるような人生を送りたいと思うのです。

というか、結果そうなる人が大半なんではないだろうか?


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昔、宗教で酷い目に遭った事があるので、神様というワードにはやや過敏な反応を示す僕であるが、道に迷うときにはやはりそちらに目を向けたい自分もいる。

という事で、自営業というものは仕事が暇になると時間もあるし、読書をすべきだと思っているのでこの本を手に取った。

神との対話


これを読んだら目からうろこの落ちる思い。

考えてみれば、自分も自然界の中の一個であって、神様と離れて存在しているわけではない。

そうでなければ存在すらできていないだろうという事を思い出す。

自分で創造して自分で落ち込んでいるというロジックは、かなり納得がいった。

宗教で酷い目に遭ったのも、会社でパワハラを受けたのも、不安で自分から導いていた心の環境でありました。

具体的には、

「こうなったらどうする?」

という仮定の将来を想像して、それを回避しようとして余計なことをする。

周りはそれに応じた反応や扱いをしてくるので、恐れていた状況に近い状況に落ち込んで苦しむことになった。

いや、それさえも自分で感じていただけで、実際にはそうではなかったかもしれない。

多分周りからすれば、それほど深刻な状況ではなかったと思われる。

神様の一部が、神様を認識するための経験をするためにここに来ているんだという内容は、なんだか心落ち着くものがありました。

ひょっとしたら、この現実は神様の一部である存在が夢を見ているようなものなのかもしれませんね。

2巻と3巻も読んでみようと思いました。

悩めるあなたにも、ぜひお勧めしたいです。




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誰でもあるとは思うけれど、少なくとも2度はタッチの差で死にかけた事がある。

一度は小学生の時、親戚の子供たちと川に泳ぎに行っていたんだけど、泳げなかった僕は浮き袋で浮かんでボーッとしていた。

そこへ何気なく親戚の子が「浮き袋かして〜」っ言ってきたので、その時は足が川底についていたので何の気なしに貸してあげたのだが、その子が向こう向いた途端、ふらっと後退りしてしまったらいきなり足が底に着かない。

慌ててアップアップするけど、誰も気づいてくれない。

足をばたばたしているうちに、足先に石が当たって体が岸の方に移動した。

あの奇跡がなかったら、多分あのまま溺れていたと思う。

もう一度は、数年前にダンプのオイル交換をしていた時に、車の下から這い出た後にサイドブレーキが外れて車両が後ろに転がっていって、指の骨折だけで済んだ時。

僕が気づかずにいたピンチはまだあると思うが、なんとも幸運の積み重ねで今まで生きてこられた。

逆に、何でもないと思えるようなことで亡くなる方もいると思うので、感謝にたえない。

それを踏まえて、神様から見た人間ってどうなんだろうと考えてみた。

「もうそれほど生きられないのにそんなに先のことを考えて悩んでどうすんの?」

みたいな感じじゃないだろうか?

もちろん、逆のパターンもあるかもしれないけど、それはそれで、

「そんなに先のことなんて分からないだろうに、もっと今を楽しんだらいいのに」

ということになるんじゃないだろうか?

どんなに楽しくても苦しくても、どうせ死ぬときはやってくる。

なら、もっと今を大事に、集中して生きるのは大事なことなんじゃないかな?

なんてことを思ったりするのです。




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まずは親を超えなさい!

という本を前に読んだ。

なんとなく読んだ。

それを最近思い出した。

突如として。

確かに、人生の初めにおけるお手本は親である。

あるいは育ててくれた人、環境である。

そうすると、その習慣、思考は自然と脳裏に刻み込まれて自分の型となる。

無意識にそれをトレースして人生を送ることとなる。

それをどこかで超えないと、同じような型の人生を送ることになる。

のが、自分では気づかないのだ。

そうだとすれば、

俺の将来はこうなるんだなって思いながら親を見る時、興味深いものがある。

別に占い師に見てもらわなくても、よーーく考えて観察すれば自分の将来は虚ろながらも見えてくるものだ。

そう言う事で、予想できる未来を変えたければ習慣を変える必要がある。

なりたい人生があればお手本となる人の思考、習慣をトレースすればいい。

なのですが、かなりの衝撃的な出来事でもなければ変えられないのが無意識の習慣なのですね。

毎日1%でいい。

いつもと違う習慣を身に付ければ一年で365%の変化が生じるわけですから、コツコツそれを実行していきたいと思ったわけです。






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最近、思考が現実化するというのをさらに進めて前提が現実化するんだというのを聞きました。

なるほど、そうなんだろうなと思う。

例えば、今いる学校をやめたらだめだという前提を持っていると、どんなにいじめられてもとりあえず残ろうとする。

学校をやめれば環境が変わってすべてが一変するというのに、それには気づかず、なんでこんなにいじめられるんだろうなんて悩みながらもなんとか在籍する道を模索する。

前提が潜在意識レベルになると、本当の問題に気付かない。

無意識にそこを避ける。

無意識レベルの前提、思い込みを実現するために脳はいろいろ方法を考えて行動させようとする。

とすると、自分的にはなんでこうなるのか分からないってなる。

前提が現実化するという事はこういう事ではないのか?

であれば、意図的に前提、目的を変える事ができれば、あとは自分の脳がそのままオートパイロットで連れて行ってくれるんだと思います。

これが分かればあとは簡単。

行きたいところへイケイケどんどんです。





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♪インドの山奥で修行してー♪

ご存じレインボーマンの主題歌である。

僕はこれを聞いて、子供心に、うわー、凄いんだなぁって感心していたもんである。

そう、インドで修行するとなんかすごい感じがするのである。

いや、したと聞いただけで、もう悟りを開いたヒトみたいに思うもんだ。

本当に凄いかどうかは会ってみないと分からないんだけど、ヤマトタケソはレインボーマンに変化するので凄かった(が、悟りを開いいたのとは別のような気がするが)。

大人になって中村天風先生の本を読んだ。

肺を病んで、カンチェンジェンガでカリヤッパ先生の指導の下、ヨガの修行をしたとの事。

これもすごいと思った。

僕の感心メーターはマックスに振れたが、更に天風先生の本を読んでいるとちょっと戻った。

天風先生によると、当時のカンチェンジェンガでは腰布してても皆さんほぼフリチン状態で、天風先生がフンドシというものを教えてあげたら、見ていた偉い人(?)が慌てて飛んできて、そんなもので締め上げると体に悪いって言われたのだとか。

この状態で一生何も考えない修行をするというのは楽しいのか?

文明に毒された僕には理解できなかったけど、それがデフォルトなのであれば多分幸せなんだろうと思う。

で、この状態で悟りを開いた場合、レインボーマンに変身できるのか?

できてなんになるのか?

もはや何のメリットも感じられなくなってしまった僕の脳裏にはひとつのひらめきがあったのであります。

「遠い異世界で修行して帰ってきたんだゾ」

っていう売り文句は、

「俺は大企業にいたから何でもわかるんだゾ」

っていう、マウンティングと同じなんではないかと。

確かに、なんか凄そうって思ってもらえればとても嬉しい。

宗教の先生でも、総本山で修行してきましたとか、本部にいましたって言われると、勝手に凄いんだって思って貰える。

ネットワークビジネスで言われるティーアップってヤツですね。

そこにいたから凄いのと、本当に凄いのとでは微妙に違うんだと思うんだけど、凄いの定義があいまいなので、その人の言っている意味では多分凄いんだと思うというのが本当の所なんだろうな。

というわけで僕らの脳は、なんだかわからない事ですぐに結論を出してしまう即席麺みたな働きをするんだなって事が分かりました。

凄いな〜・・

今度からできるだけなんも考えずにAIに考えてもらお♪

いや、AIも何が凄いんだかまだよく分かりませんでしたね。





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re


この本読んでて思った。

絶対の積極とは本当にしたい事から生じるという事を。

自分に正直であれば、自信が湧いてくる。

当たり前なんだけど、それにはなかなか気づかない。

これが、本心ではしたくない事、なんだかしっくりこない事、誰かにやらされている事をやってたり言っていたりしてると、本当の自分というものがそれは違うぞとか言っていて、結果、心や行動は消極的になる。

問題は、子供の頃や社会、宗教から習慣づけられて自分の本心が分からなくなっている事である。

こうじゃないといかん。

という思い込まされてきた思い込み、これを破壊しないと自分の本心には気づけない。

しかし誰がどう言っても、自分の本心は好きは好き、嫌いは嫌いで変わらない。

それに正直でないと幸せにもなれないし生きにくいだけですよね。

その契機が失業であったり怪我であったり社会の崩壊であったりとなかなかキツイものでありますが、それを経験せずとも方向転換するのが天風哲学であると思います。

三つ子の魂百までというは言いますが、過去の思考習慣をスパッと切り捨てて、自分の適性に正直に生きていければ、地獄のように見えていた社会も、実は明るく楽しい世界に変わるものと思われます。





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2004年の朝も無事に目が覚めてとにかく胸をなでおろしたところですが、いきなりの日本海側の地震で今年はより変化の年になるんだろうなと実感した次第であります。

元より、自然界は時々刻々と変化しているわけで、何事もなくても経年劣化でいつかは死ぬという事実から目を向けようとしても、それは無理だわという事は毎朝鏡を見て理解しております。

高知県もいつ南海トラフ地震が起きるか分からないわけで、できれば平穏に天寿を全うしたいと思うのが精一杯の願いではあります。

一休さんの「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」という句を思い出し、人生は永遠に続くと思っていた青年の頃の青さが心に染みてきます。

魂を成長させるためにエイブラハムの所からやってきたという生まれ変わりがあるかどうかは分からないけれど、限りある今回の人生、今この時点で満足できればそれでよし、それ以上でもそれ以下でもないよねといきたいところです。

という事で、今現在生きていられるんだからありがたくもおめでたい事だという事で、僕的にはとてもおめでたいお正月であると思っています。

おめでとうございます!

今年も一年、よろしくお願いいたします!






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今年も残すところ数時間。

色々あったけど、いい一年でした。

かなり本も読めたし。

来年は年男。

還暦を迎えます。

辰年生まれなんで、なんだか昇れるような気がしながらこの年を迎えました。

特に出世も望もしなかったけれど、そこそこには成功したかった。

まあ、思い通りには来たんじゃないだろうか?

日本の国が増税と社会保障費で、これほど国民を苦しめる事になるとは思わなかったけれど、まあ、それも訓練と思えば耐えられないこともないか・・(?)

というより、生きてるんだから死ぬわけにもいきませんしね。

お金の件で望みを高く持たなければどうという事もない。

それよりも安定と幸せを求めて生きたい。

来年は色々変化を迎える予感がするので、楽しみでならないのですよ。

そう思えばそうなると思えるようになったのが今年の成長です。

ともあれ、みなさま、今年もお世話になりました♪


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何週か前、「うちの弁護士は手がかかる」を見てたら、ムロさんが、

「怒っていいんですか?」

って聞いたら平手さんに、

「怒っていいんです。怒るべきです」

って言われてました。

そう、この状況で怒っていいのか悪いのか、それさえ分からなくなる人種というのがいるのです。

小さい頃から、感情を出す事への事への周囲のの過剰な反応が、怒る事への罪悪感へと繋がって、いわゆる”いいひと”というのを作り上げます。

こういう人は、周囲に、いわゆるテイカーという種類の人間がいて、搾取され続けてきたものと思われます。

都合よく利用してそれはできないと拒否すると締め上げてくる毒親、上司のようなものだと思います。

人間社会の構図は概ねそういうものでできているとは思いますが、いつまでも搾取される側にいると、寂しい末路しか見えなくなる。

せめて3回に一回ぐらいは断りたい。

否定するたびに怒鳴る必要もないけど、感情は出さないとWin-Winの人生は送れない。

という事で、まずは自分の必要を満たし、それから他の人を助けるという確固たるルールを確立するべきだと思います。

どこまでも要求してくるクレクレタコラを自分の周囲から駆逐し、持ちつ持たれつの関係を築ける人とだけお付き合いするには、時には感情を出すことは必須だと思います。

その前に、自分は本当は何が嫌で何が好きかという事を理解しないといけないのが厄介な所ですけどね・・




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サラリーマン時代に社長が言った。

「今度増資するから」

僕は思った。

それが僕に何の関係があるの?

意味が分からないままにその後退職したのであるが、もしかしたら給料が増えるという話だったのか?

たとえ昇給しても、小遣いの変わらない僕には何の影響もないのであった。

いやむしろ、昇給したんだから売り上げを上げろという事にでもなれば、かなり影響がある。

昇給しても奥さんは、

「あれだけ働いてるんだから当然よ」

的な言い方をするだろう(してきた)。

これは板挟みになる自分がかわいそうだと思ったものである。

よく考えたら、誰かのせいにして誰かを利用しようというロジックは日本社会ではもはやスタンダードである。

「少子高齢化で社会保障費やら税金を上げないと大変なので上げます」

っていうあのシンプルな論理は典型的なものではないだろうか?

少子高齢化はお前たちのせいだみたいな感じがする。

それは自然現象なのかもしれないし、過去の政治の失敗なのかもしれない。

少子高齢化にかなりの影響をもたらしたのが、過去の社会保障費増額と消費増税であったと思われるのに、それを増やす理由がまたそれかいみたいな気もする。

いずれにせよ、何か(あるいは誰か、もっと酷いのになると、あんた)のせいだからこうしますよってなし崩しにやってくる災厄。

言われた本人は素直に、

「ああ、そうなんだな、自分のせいだな」

なんて自分を責めながら奴隷として落ちていく。

誰のせいでもないから、今この現象をどうにかしようとしようよ!

なんて、思う人は少ない。

理由ばかり考えてて実行する対策は、今までの延長でしかない。

なんででしょうね。

楽だからかな?

いや、自分のせいだって言われたくないという一語に尽きるのでしょうね。

どうにかこの思考習慣から脱出したいものです。
















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