サイキ整備Service

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カテゴリ: 哲学

誰でもあるとは思うけれど、少なくとも2度はタッチの差で死にかけた事がある。

一度は小学生の時、親戚の子供たちと川に泳ぎに行っていたんだけど、泳げなかった僕は浮き袋で浮かんでボーッとしていた。

そこへ何気なく親戚の子が「浮き袋かして〜」っ言ってきたので、その時は足が川底についていたので何の気なしに貸してあげたのだが、その子が向こう向いた途端、ふらっと後退りしてしまったらいきなり足が底に着かない。

慌ててアップアップするけど、誰も気づいてくれない。

足をばたばたしているうちに、足先に石が当たって体が岸の方に移動した。

あの奇跡がなかったら、多分あのまま溺れていたと思う。

もう一度は、数年前にダンプのオイル交換をしていた時に、車の下から這い出た後にサイドブレーキが外れて車両が後ろに転がっていって、指の骨折だけで済んだ時。

僕が気づかずにいたピンチはまだあると思うが、なんとも幸運の積み重ねで今まで生きてこられた。

逆に、何でもないと思えるようなことで亡くなる方もいると思うので、感謝にたえない。

それを踏まえて、神様から見た人間ってどうなんだろうと考えてみた。

「もうそれほど生きられないのにそんなに先のことを考えて悩んでどうすんの?」

みたいな感じじゃないだろうか?

もちろん、逆のパターンもあるかもしれないけど、それはそれで、

「そんなに先のことなんて分からないだろうに、もっと今を楽しんだらいいのに」

ということになるんじゃないだろうか?

どんなに楽しくても苦しくても、どうせ死ぬときはやってくる。

なら、もっと今を大事に、集中して生きるのは大事なことなんじゃないかな?

なんてことを思ったりするのです。




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子供の頃、おじいさんのやっていたお店でアルバイトをしていた。

そこでひらめいたことがあった。

このアイス、30円で買って家に持って帰ったら5円の運び賃のっけて家族に売れば5円儲けるぞ。

今にして思えば、将来の商売人の誕生の瞬間であった。

と言いたいところだが、母親に怒られた。

そんな姑息なことはするなという。

当時の親はサラリーマンであったから、お金は時間換算で貰うという感覚であったのだろう。

僕はそのままお金は汚いものだと思い込んでしまった。

お婆さんの宗教教育でこれが進み、資本主義社会にさえ疑問を持つようになり、宗教に出家する事も考え始めた時期がある。

あの頃は終末論が盛んで、かなりヤバい空気が漂っていたから、もうどうしようもない感じでありました。

まあ、その後何十年も労働の対価を請求することもできずに、ブラック企業、あるいは無償で働くことを美徳とした結果、悪質なテイカーに捕まり搾取され続ける生活を送ってきたわけでありますが、それも大きなけがをして電話もブロックしまくり仕事も辞めてやっと目覚めたわけであります。

さて、これからどうやって巻き返すか。

来年が楽しみなところでありますね。



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色々本を読んでると、何をするにもまずは人格が大事だと書かれている。

それはそうだと思うが、単に人がいいのとは違う。

求めるべき人格者はまず視野が広いと思う。

人がいいだけで視野が狭いとすぐに騙されてしまう。

いわゆるテイカーに全部持っていかれるのはこのタイプ。

自分が頭がいいと思っている専門家も騙される。

視野が一点集中で他の事には油断しているから、不意打ちに弱い。

このタイプは宗教家にも多いです。

この逆を目指したいところですが、僕が思うに、広く深く勉強し、どこにでも首を突っ込める度量があり、人の意見を聞けるというのが理想ではないか?

これに加えて現場経験も豊富で、それゆえに相手の気持ちも理解できる人。

おらん、そんな人は。

いや、どこかにいるかもしれないけど。

ジャック・マーがそれに近いかな?

知り合いじゃないからあくまでイメージですけどね。

たたき上げだと意地悪になったり頑固になったりするし、現場知らずの頭でっかちだと手を動かさずに下をマネジメントしようとしてうるさくなる傾向にあると思います。

ともあれ、商売の相手にするにはまず人格が悪いと取引したくないのは理解できます。

商品は好きでも厭味ったらしく嫌いな奴からは買いたくありませんものね。










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「人生は先払い」

って聞いたことがありますが、何事かを行えば時間をおいて結果が帰ってくるという厳然たる法則の事だと思います。

しかし結果が出るまでにはタイムラグがあって、結果が帰ってきた時には原因となっている自分が行った事柄や考えたことはすっかり忘れている。

そして、ラッキーって思ったり、なんでこんなことが起きるんだろうって悩む。

はたからみてたひとにはそれが分かっていて、

「それ、あんたが注文してたよ」

なんて思われてたりします。

そう考えると、自分が今何を望みどう行動するかといったことは大変重要なんですね。

絶えず人格を磨き、倹約し、良く働き、礼儀正しく品行方正であろうとすれば、そのうち結果も見えてくるんでしょうけど、そのころにはすっかり忘れている。

なんだか面白くて楽しいのが人生だなって思えるようになってきました。

そういう事で、僕も目についたら可能な限りごみを拾うようにもなりました。

こういうのが分かるようになるのが円熟っていうものなのかもしれませんね。

まだまだ修行が足りませなんだわ。

ほッほッほッ・・・








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かの大谷翔平選手がお勧めとしておられたので読むことにしたのが、論語と算盤



その中で、現代と同じようなことが繰り返し書かれている。

例えばこういう文がある。

「成果をあせっては大局を観ることを忘れ、目先の出来事にこだわってはわずかな成果に満足してしまうかと思えば、それほどでもない失敗に落胆する-こんな者が多いのだ。
高学歴で卒業した者が、社会での現場経験を軽視したり、現実の問題を読み誤るのは、多くの場合このためなのである。」

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そのまま今の社会を見ているようですね。

人間とはそのようなものなのですね。

という事は、パターンが掴めるという事ですから対策も立てられるという事で、勉強して当てはめて行動して変化するなら成功できるという事ではないか?

なんか、いい事を知られてとても嬉しい感じがします。

ありがとう!











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悪の美学というか、漫画やドラマに出てくる悪役って、非常に魅力的であります。

雑念が無い。

一意専心、他の事を考えず、わき目も降らない人間は実に強い。

ポリシーがあるのであります。

他の事を考えずに目的に向かって邁進する人間は強いし、それは大変魅力r的なんですね。

これは、善悪関係なく共通するものだと思います。

そして強い。

他の事を考えていないので、強力に行動します。

生存本能に突き動かされて戦う兵隊さんは強い。

好きな道で、どうあっても成功したい経営者は強い。

本能に突き動かされて邁進する変態さんは強い。

下着泥でさえ、ポリシーと本能に突き動かされて迷いなく行動する強さがあります。

下校時の小学生みたいにあっちにふらふらこっちにふらふらすることなく、目標に向かって、真っすぐに突き進む強さがあります。

という事はですよ。

なにかを成し遂げたくば、それ以外の事は考えないのが達成の秘訣であるという事ですね。

長期的な目標でなくても、その時その時、目の前にある課題以外の事は考えない。

それが終わったら次の事にとりかかる。

「これに何のメリットがあるんだろう?」

なんて、意味なんて考えてたら迷いが起きるので、他のこてゃ考えない。

人の意見も聞かない。

例えば瓶の蓋だって、蓋を開けるなら無心で蓋を開ける。

閉めるなら閉める事だけ考える。

これはどうなっているんだろう?

とか、開けたら何か吹き出すんじゃ?

なんて考えてたら、何も考えない奴が来てポンと開けてしまいます。

仕事も同じで、あれこれ考えていたらさっと取られてしまいますね。

一番大事な、行動と言うのが制限されてしまいますので、それに関わる準備以外は考えたらだめです。

イレギュラーは絶対起きる前提で、起きたらその時考えるればいいんですよね。








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色々思い悩んできたけど、結局は自分の脳の回路を書き換えればいいんだってことに行きつきました。

長い習慣で染みついたのうのシナプスを書き換えるには、やはり習慣を変えるしかない。

インプットする情報は、もちろん変えますが、なんといっても環境と習慣の影響は絶大です。

これをコントロールできればプログラムは思いのまま。

壁のポスターや文句を言う独り言、朝起きたら生きていることを感謝するなんて、ちょっとした事から変更していきます。

「こうきたらこうする、こう考える」

という思考の習慣も変換です。

相手の動機や出来事を悪く捉える習慣も、

「これ、ぜったいいい事や〜♪」

なんて、いい所を探す。

このシナプスが完成したらものすごい事が起きそうです。

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知らないことや失敗したことを責められ続けて育つと、言い訳がましい人間が出来上がる。

僕がそうである。

何かにつけ、「俺のせいか?」って思ってしまう。

言い訳と嘘で自分が嫌になる。

素直に、「分かりません」「できませんでした」「失敗しました」って言えるようになりたい。

そうすると、そこでその話は終わる。

仕事もそこで終わるかもしれないけど、それでもあいつは信用できると思ってくれると思う。

できないことをできると言って請け負ったり、失敗を隠してもっと大きなトラブルを起こすようでは、とても危なくて仕事も任せられないとなる。

だから、できなくても、調べてやってみますぐらいは言いたい。

もう僕を責め立てる人間はいないのだから・・
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「これだからこうで、こうなっててこうしたらこうなるらしい・・」

小さいころ、ひたすらうちの婆ちゃんが僕に諭していた。

僕の周りにはこのタイプが多いので、僕自身もそうかもしれない。

ある時気が付いた。

人に理屈を言ってるうちは、自分は動かないと。

更に言うなら、人に言ってやらせようとしている人もこの中には混ざっている。

人に適用しているうちは他人事なんである。

やる人は、人に言わずに自分の中で完結していて黙って実践している。

黙々と試行錯誤しているのです。

本当に納得してたら人に言いませんよね、

それに気づいたので、ある時から僕はあえて喋らなくなり、返事をしなくなった。

それでも口からポロって言うのはありますが、それはそれで流す。

次から言わなきゃいい事ですもんね。

そういうわけで、自分が他の人に理屈を語っているうちは理解していないかやりたくないか、いずれにしても本物ではないと自戒しているわけです。


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昔から、

「できるまでやれば必ずできる」

という持論がありまして、これが自分のしつこさに繋がっています。

それが最近話題の量子論と引き寄せの法則とが相まって、確信となっております。

大怪我してから絶望と投げやりになりそうになりながらも、時間はあったのでその辺を勉強しました。

中でも、多くの成功者の経験で、成功の一歩手前では大きな壁が生じるという事があるという事実は励みになりました。

であればこの怪我も成功前の壁ととらえて、自分を励ましながら元気に作業をしている自分をひたすらイメージすればいいと思った。

そうすると、なんか指が動き出した。

物も持てるようになってきた。

なんだか引き寄せられてる感じです。

絶対にあきらめないけど、焦ることもしない。

このまま淡々と、目標に向かって進めばいいんだ。

そう思う毎日です。







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自分もそうだけど、議論で根拠のない前提が生じていることがあります。

例えば、

「女性は他の人に関心があるので〜」

とか、

「そういうことは前例がない〜」

とか。

よく考えたら、別に他の人に関心のない女性だっているし、時代も社会も変化し続けているんだから、前提のないことばかりじゃないだろうか?

そもそも、過去にもいろんなバリエーションがあったはずだし、その人が知らないだけで、何でもありなのが自然界なんじゃないかな?

最初に言葉でロックをかけてしまうと、他人に関心のある女性や前例のないと思われる新しいことは除外されることになる。

これが社会や人生の息苦しさの原因なんではなかろうか?

というか、絶対そうである。

何気ない最初のこの言葉は特に思考の中で無視すべきだ。

誰だってこれから先の人生を生きたことはないし、実際行動できるのは今しかない。

過去の前提はすべて無視して、達したい目標に向けて驀進するのが後悔のない人生を送る秘訣ではないかと思うんですね。

あと、後悔しないこと。

あれをしなかったからこうなったとか言ってると、煮詰まってしまって有効な行動ができなくなります。

これをしたからうまくいったとかいう因果応報的な考え方も最小限にとどめたい。

単に、こういう状況が起きたからどう対処するかなといった場当たり的であはあるけど、知恵を使った対処をすると、脳も働きやすくなります。

頭を使って成功しだすとそっちが面白くなります。

これに気づけたら、そこがターニングポイントであると思いますね。
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怪我して手術した時に思ったのが、人間の体は使わないと動かなくなるという事。

親指と小指は無傷であったのに、中3本と一緒に固定してたら一週間ほどですでに動かなくなっていました。

という事は、日ごろいかに無意識に動かしているかという事ですね。

これを痛みを伴うリハビリで動くようにするまでに数か月かかりました。

未だに違和感があります。

多分これは頭も同じであると思います。

考える習慣を持たないと、思考もどんどん衰えていく。

恐ろしいことです。

人の体は使い続けないと衰えていくのですね。

そういわけで読書と毎朝の体操が日課となりました。


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この本を読んでなぜ自分が百ゼロの価値観を持っていたのかが分かりました。

何かができなければ役立たず、何かに失敗すれば死んでお詫びをなんて恐ろしく極端な考え方。

これが僕を苦しめ続けてきた。

学校も仕事も、少し失敗したら辞めなければならないと考え始める。

逃げ出したくなる。

その原因がカチカチに凝り固まったマインドでありました。

故障個所を見つけて修理しているとうまくいかなくて電装屋さんに手直ししてもらうと、もう資格がないように感じる。

なんとか次回はうまくやろうとあれこれ考えて便利工具を買ってよーっし次回は!

って思うけど、なんだか不安。

もう仕事が来ないんじゃないかって夢に見てまでしまう。

この原因は、子供のころから周囲で言われていた「あんたはいい子」という呼びかけであったか?

過大な期待を感じ取った幼い僕は、百ゼロマインドに苦しむことになるのであります。

気づいたからにはここからが巻き返しだ!

って、思いました。


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ナヴァル・ラヴィカントさんの本を読んでると、幸福とはつまりこういう事ではないかと思いました。

「幸福とは、何も考えない状態であること」

これに至る事を目指して人は働き、家族を作り、健康で痛いと思う。

目的は、何も考えずに、つまりは安心して今ここにあるがままの状態で満足する状態になる事ではないかと思います。

これが往々にして、手段が目的と入れ替わる。

安心するためにはたくさんお金をためて=>たくさん働いて倹約して、節税して=>我慢して搾取して節税のために要らないものを買って=>手に入れたものを維持したり整備するためにお金を使って=>心配になって・・・

結局、好きな仕事にもつけず、家族も得られず、健康を概して不安になる。

何も考えないことが幸福であれば、今すぐに幸せになれます。

どうせ死んだら必要もないものばかりです。

心配な事を何もかも、「もういいや」って思えばいい。

頭を空にするのが難しければ、座禅もいいかもしれませんね。

ともかく心をざわつかせるこだわり全てにはそれほどの意味もないって思うことですね。

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出口を見出そうとして色々本を読んできました。

まとめてみるとこんな感じ。

まず目標を立てる。

行きたい場所、環境、したいこと、なりたいもの、理想とする生活。

どうしてもそこまでになりたくてワクワクするような事があればそれを考え続ける。

逆に、そういうものがなければ本心の自分は現状に満足しているということだからそのままでいい。

今が嫌な気持ちなら、本心を偽らせるなにかがあるので、その思い込みを切り捨てる。


目標ができたら、そこにいたるまでの段階を一歩踏み出す。

貯金なり勉強なり人脈づくりなりを始める。

今の生活から目標に向かう行動を加えて生活習慣を少しずらせば、あとはそれを続けるだけ。

思考が現実化するまでは時間がかかるので、その間の時間に何も考えずにただ行動を続ける。

嫌なことはしない。

好きなことだけする。

まあ、こんな事が要点だと思います。

やりたいことは人それぞれなので、望んで行動して待つというあたりが共通項なんだろうなと思いました。










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人間、贅沢なもんで、持ってるものは大事にせずに無いものを追いかける傾向があります。

向上心といえば言い方はいいんですけど、どこまでも、”もっともっと”っていくと、どこまでも幸せになれない。

ではどうすればいいかというと、

隣の芝はそれほど青くはない

ということをわきまえる。

先のこともまるで分かりません。

歴史は繰り返さない。

前例のないことが起き続けるのが自然の成り立ちのようです。

文明は絶滅もするし、いずれ消えていくのが命である。

常識と思っていることだって、明日にも非常識になるかもしれない。

変化するのが当たり前だと考えると、なにかに期待するのは非常に危うい考えだと言うことになりますね。

でも期待もないと行動もしにくいので、ある程度もマージンがあるとする。

こうすればこの辺までいけるかな?

なんて、ザックリと予測する。

ダメだったらこう行くか・・・

くらいのマージンを設けて考える。

これぐらいなら、アテが外れても腹も立たないかな?

期待もせずにただ行動するのが中庸というものではないかと思います。

・・・が、これがなかなか難しいですね。





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養老先生もホリエモンも言ってましたけど、僕も

「人生は死ぬまでの暇つぶし」

だと思います。

こういうスタンスを持てば、欲が出なくていい。

成長はしたい。

でも、もっともっとってやっても最後は死ぬんですからチャラです。

苦労して何をやったか分からない人生であったなんて、ちょっと寂しい。

ましてや現在の日本は働くほど貧しくなる妙なシステムになってます。

つまり、国家が推進しているのが、ガムシャラをやめてもっとゆるりと生きないと懲罰として課金しますよって言ってる感じでしょうか。

「物欲も捨てて労働もそこそこで、今ある自分を大切に、やりたいことをやる方法を考えよ」

という事しか自分のミッションは無いように感じます。

太古の昔からそうだったんでしょうけど、その日暮らしで仲間と身を寄せ合って生きていく事以外に幸福の道はないのじゃないでしょうか。

それが、歪んだ資本主義で物質主義的な安心を求めるのが行き過ぎて何が幸福なんだか分からなくなった。

そこで原点回帰したのが、”人生は暇つぶし”的な考え方なんだと思います。

それが本質なら、僕もそこに帰りたいと思っています。

好きな仕事ができて、そこそこ生きていけたらありがたいことです。






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昔、

「嬉しい事のみやってくる」

って、うちのタンスに貼ってありました。

これは、うちのお婆さんのやってた宗教の標語みたいなものでしたが、最近これはちょっと表現を変えるといいんではないかな?

って思うようになりました。

何を変えるかというと、やってくるのを待つというスタンス。

だけど、取りに行くというわけでもない。

今の僕ならこう変える。

「私は何が起きても嬉しく感じる」

同じことが起きても人によって反応が違います。

こっちが変わればどんな状況でも嬉しくなる。

嬉しくなると、それに引きづられていいことが寄ってくるわけですね。

そういう仕組になってるみたいです。

自然の仕組みに逆らってもいいことはなさそうです。




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昔、足がつっただけで自分の足を叩きまわる程自分を粗末にしていた。

どうしようもない怒りがあって、自分が嫌いだった。

事故をすると自分の車を蹴りつける。

ちょっと失敗すると死にたくなる・・

仕事でも自分を痛めつけなければダメだなんて思い込みがあり、無茶苦茶やって遂に死にかけた。

時間ができたので、加藤諦三さんの本を読んで、どうも幼少期の怒りがあるのではないかと思うようになった。



自分を大事にするようにしたら、焦りがなくなった。

焦らないから怒りも出てこない。

なんか、世界が自分に優しくなったような気もします。

誰が僕を追い立てていたのか・・・

小さい頃に側にいた人といえばお婆さんなんだが・・・

記憶が無いので良くわからないけど、人を脅かして喜ぶ人だったな・・・

お世話になったから言えないけど・・

先日お墓参りに行って、「ありがとう」と述べてきました。

これも成長の糧となりました!



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頭がいいのが善だという教育を受けてきたせいか、座ってものを考えたがる人が多いと思う。

それも大事なんだと思いますが、これが実は脳のサボりぐせとくっついて行動を制限してしまう事にもなってしまうと、なんも動けなくなります。

「俺がやりかかりゃぁ・・・」

って言いながら、ずっと行動を起こさないでいる状態が死ぬまで続く・・

宿題を最後まで溜め込む小学生状態ですね。

行動力のあるバカは始末に負えないと言いますが、行動力のない天才は何も生み出さない。

行動からしか結果は生まれないので、考えてばかりでは何も動かない。

宗教だと神様仏様に祈り続けるわけですが、結果を出してるのは布教やお布施という行動からです。

そういうわけで、寝床で色々考えてても悩みが深まるだけで、とりあえずタマを撃ってみるのがいいではないか?

まあ、そういう考え方でいってみようと思うこの頃です。

動け動けで、考えるのはその後ですね。



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