悩むのが人間だと思うけど、この原因は、持っていないものを探す習慣にあると思う。
原因は、絶えず苦手な分野を探して克服させようとする日本の教育方針に根っこがあると思う。
これがなければ、もっと得意分野を伸ばせるのではないかと思うのです。
一旦身に付いた習慣は、かなりのことがなければ取り除けない。
僕がいた会社でも、月100万円の売り上げ目標が、達成されたら150万、200万、250万と、どんどん上がっていった。
会社側もどんどん資産を増やしてノルマを与えて更に儲けようとするから、ひたすらまだ足りないまだ足りないって言って来る。
現場の人間にしてみれば、そのうち体は悲鳴を上げ、やる気も失われて、もういいやってレベルにまで行くと、逆に楽になる。
何もいらないって状態にまで行きついてすべてを手放すと、かなり楽になります。
僕の場合、どうにもならなくなって辞めて、今度は左脳の働きをやめる必要を感じて瞑想にふけるようになりました。
幸せの条件が何かを追い求める事だと定義してしまうと、逆に不幸になる。
”じゃない方”
を探し続けるのは間違っていて、逆に疲れてしまうという事ですね。
すべての執着を手放した方が持ってるものにありがたみを感じるし、新しいものが色々寄ってくるようです。
原因は、絶えず苦手な分野を探して克服させようとする日本の教育方針に根っこがあると思う。
これがなければ、もっと得意分野を伸ばせるのではないかと思うのです。
一旦身に付いた習慣は、かなりのことがなければ取り除けない。
僕がいた会社でも、月100万円の売り上げ目標が、達成されたら150万、200万、250万と、どんどん上がっていった。
会社側もどんどん資産を増やしてノルマを与えて更に儲けようとするから、ひたすらまだ足りないまだ足りないって言って来る。
現場の人間にしてみれば、そのうち体は悲鳴を上げ、やる気も失われて、もういいやってレベルにまで行くと、逆に楽になる。
何もいらないって状態にまで行きついてすべてを手放すと、かなり楽になります。
僕の場合、どうにもならなくなって辞めて、今度は左脳の働きをやめる必要を感じて瞑想にふけるようになりました。
幸せの条件が何かを追い求める事だと定義してしまうと、逆に不幸になる。
”じゃない方”
を探し続けるのは間違っていて、逆に疲れてしまうという事ですね。
すべての執着を手放した方が持ってるものにありがたみを感じるし、新しいものが色々寄ってくるようです。